竹中半兵衛重治とは・・・

2015年10月22日

豊臣秀吉の軍師としてその名も高い竹中半兵衛は、本名を重治。通称は半兵衛と称し、美濃国大御堂城主(現・揖斐郡大野町公郷)竹中重元の子として、天文13年(1544)に生まれたといわれたいる。この頃竹中氏は美濃の国守・斉藤家に仕えていた。
永禄元年(1558)父・重元は不破郡岩手村(現・垂井町岩手)に居城していた岩手弾正を襲い、福田・長松・岩手付近を領し六千貫の領主となった。翌2年菩提山に城を築き、重元・半兵衛親子は山麓の集落、西福に邸を構え移り住み、引き続き斉藤家に仕えた。
半兵衛は幼より学を好み、兵書を学び、口を開けば理にかなう事をはっきりと言った。しかし、普段の言動はおっとりしていて、身体つきも弱そうで、乱世に生きる武士としては頼り無さそうに思われていた。その為、父没後も仕えていた斉藤家の家臣達から『うつけ者』と嘲笑されていた。
永禄7年正月、恒例の年賀の挨拶に稲葉山城に登城した半兵衛を、斉藤家の家臣達が侮辱した。半兵衛の家臣が怒ろうとすると、これを制し、知らぬ顔で岩手へ帰った。
半兵衛はすぐに策を回らせた。安藤守就と相謀って、同年2月6日、稲葉山城に人質として預けられている弟・久作の病気見舞いと称して従者16名を率いて白昼堂々と城へ赴き、夕刻を待って武具を付け登城し、番頭斉藤飛弾守以下数名を切り伏せた。
城主龍興は驚き鵜飼城へ逃れ、半兵衛は名実共に稲葉山城主となった。
難攻不落と言われた城を主従18名で奪取したので『美濃に半兵衛あり』とその名は全国津々浦々に知れわたった。半兵衛稲葉山城奪取の報を聞いた隣国織田信長は「美濃半国を与えるから城を譲って欲しい」と申し入れたが、半兵衛は、「主君を諫める為にかかる大事を決行しただけ。何れ城は主君龍興に返す所存」と言って拒絶した。この言葉は戦国の世にあって人の意表をつく言葉であった。領土的野心の全く無い、無欲の武将であった。
同年8月頃、城を龍興に返し半兵衛は江州浅井長政の食客となり、翌年秋頃岩手へ帰った。たまたま栗原山に閑居している時、信長の使者・木下藤吉郎(のちの秀吉)が三顧の礼を以て半兵衛を訪ね、「信長公に御味方なさる様」懇願したので、説得に応じ信長に仕え、命により木下藤吉郎に属し与力の謀臣となった。半兵衛は秀吉と形影相伴って智恵袋として活躍する。姉川の役には弟・久作が浅井の猛将遠藤喜右衛門を討った。
『智の半兵衛、武の久作』として竹中の名は天下に響きわたった。

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